観たコンテンツのメモを残します

映画、舞台、ドラマ、本など見聞きしたコンテンツの感想メモを残そうと思います。人に読まれることを前提としていていません(と一応書いておきます)ので、稚拙な文章はお許しください。

ドラマ「それでも、生きてゆく」第4話

双葉の父親(時任三郎)が中心軸となる第4話。

 

はじめは「今の家族を守るために、息子(文哉)を捨てた」という父親であるが、双葉や洋貴は、父親としての無責任さや「文哉も息子でしょ」と言い彼を責める。

 

洋貴と双葉のシーン、二人でボートに乗っている場面では、「いまここ」のみを生きられたらどれだけ幸せか、二人の出会いがどれほど違ったものなのかといった会話がされる。洋貴が「でもそしたら亜季は・・」という発言によって過去を忘れることの罪深さのようなものを再認識させられる。

 

洋貴と双葉の父親が出会い、洋貴が「文哉を殺す」と伝えたことで、文哉を探すことを父親は決意する。

そのことを家族に伝えるシーンでは、文哉が父親の連れ子だったことが発覚する。

双葉「え、私は?」

母親「何言っているの、双葉はお母さんの・・」

という台詞によっておそらく双葉も父親の連れ子だったのだろう。

双葉、文哉が父親派と言っていたことは感覚的なものでなく、実際のところ遺伝的な意味であったということがここで回収された。

加害者家族として生きるために、離婚をしていたこの家族から、母親が繋がり自体を否定する発言をしてしまったことの重要さに、見終わってから気づいた。

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ドラマ「それでも、生きてゆく」第2話 第3話

それでも、生きてゆく」2、3話を続けてみた。

洋貴と双葉の関係が近づく第2話、洋貴の母親である響子(大竹しのぶ)が描かれる第3話。

 

三崎家に嫌がらせの電話が続き、仕事をクビ、婚姻相手から別れを告げられるなど、加害者家族を取り巻く社会からの冷たい目が描かれる。

三崎文哉の事件当時、まだ生まれていなかった双葉の妹が「私は(加害者家族という理由で)仕事をクビになったり、恋人からフラれたりするのは嫌だからね」という台詞を残す。事件当時に存在している/していないというだけで、事件の当事者になる加害者家族の不条理さが滲み出ている。

またのちに誤解と判明するが、加害者家族がクリスマスケーキを買うところを目撃した、被害者家族。被害者家族にはクリスマス、正月、七夕もなかったと伝える洋貴。通常に生きる、幸せに暮らすというところにイベントを持ち出してくる表現は秀逸である。

「加害者」「被害者」という記号的な意味が付加されるだけでここまで扱いが変わるのかと思う一方で、サッカーW杯の遠藤選手のゴールにそこまで興奮できなかったと共感する洋貴と双葉を見て、やはり記号的に付けられた社会のレッテルのようなものは何なんだと感じる。

双葉が洋貴の前で口紅を落とした時に、双葉は「拾ったものです」というが、洋貴は「別に加害者家族が口紅付けるなと思ってないですよ」と返答する。「ただ生きる」ということ自体がこんなにも窮屈で、外からの視点が入っているのだと再認識させられる。

双葉は、兄が冤罪かもしれないと思わないと生きていけないことがわかるが、その双葉も兄に殺されかけた過去を持つ。

2話の最後に洋貴が「僕ら」という主語を使用して、加害者家族/被害者家族をWeと表現したことは特筆に値するのではないか。

 

第3話では三崎家に嫌がらせの電話、ビラを作製していたのは、洋貴の母親の響子であったことがわかる。

亜季が殺される前に、姦淫の有無について言葉には出さないがずっと悩んでいた響子。

洋貴と双葉の調査によって、姦淫はなかったとわかる。

姦淫の有無によって具体的に何かが解決されたわけではないが、「わからないことが一番苦しいこと」という双葉の通り、何年も前のことでも一つずつ向き合うことが必要とされるのだと感じる。

事件当時に三崎家が住んでいた家はすでに壊され、空き地となっていた。家や土地というものも記号的なものであり、それ自体に大きな意味がないことがわかる。ただ双葉にとってはその前を通るときに「目をつぶらないと通れない場所」であることが描かれていた。

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ドラマ「それでも、生きてゆく」第1話

前回「問題のあるレストラン」を全話見てから感想を書いたが、ドラマによって話ごとか、すべて見終わってから書くか変えていこうと思う。

「それでも、生きていく」は話ごとにメモを残したい。

 

2011年の夏クールに放映されていたドラマ。

被害者の兄と加害者の妹との関係がこれから続いていくと思われる。

 

深見洋貴(永山瑛太)が子どもの頃(忘れたが中学生くらい)に、妹を放って、友人とAVをレンタルしに行っている時に、妹を三崎文哉(風間俊介)に殺される。

そのことを文哉の妹である双葉(満島ひかり)にファミレスで深見は「妹が殺された時に俺はおっぱいのことを考えていたんです」と告白するシーンが印象的。

深見は自分のせいで妹が死んだとずっと思っていたが、その後文哉が出所していることを知ると、これまでの感情が文哉への憎しみとなりナイフを持って歩道橋へ進む。

そこを双葉に止めれ、双葉が文哉の妹であることを打ち明けれれるが、その後の深見の怒りの矛先がどこに向くかが注目ポイントである。

 

深見の父親(柄本明)が、生前の妹に買っていた靴を深見がたくさん発見するシーンでは、10足以上の靴が発見され、妹の死後も父親が靴を買っていたことが示唆される。

消費されることのない、ピカピカの靴を発見し、一人凧揚げに向かう深見の心情は計り知れない。

 

また恐らく今後の展開でも重要なテーマになりそうな「フランダースの犬のような悲しい話がなぜ存在するのか」という問いの答えとして、深見がドラマのタイトルである「それでも、生きていく」ということっぽい返しをしていたが、これが今後どのように変遷していくのか注目。

文哉は「人間は悲しい生き物だから」という答えも今後聞いていきそう。

 

1話が興味深すぎて今後11話までこのドキドキが続くのか不安だが、楽しみ。

 

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ドラマ「問題のあるレストラン」

2015年にフジテレビで放映されていたテレビドラマをFODで見た。

放映されていた当時の反響はわからないが、ジェンダーや家族感の描き方が、少し説教染みて感じられる。

 

その後の坂元脚本作品である「カルテット」「大豆田とわ子と三人の元夫」のようなセリフの応酬や圧倒されるようなテンポ感はこの作品ではまだ感じられない。

 

主人公田中たま子(真木よう子)の聖人ぶりは少し疑問が残るが、周りを取り囲むキャラクターの個性押しすぎ、ダメさ加減がそのバランスを取っていた。

「田中たま子」と「真木よう子」の感じとひらがなのバランスが一致しているのは偶然か?

気になったのは雨木千佳(松岡茉優)が雨木社長(杉本哲太)の娘という設定が第1話でしか機能していなく、最終話で雨木の息子に千佳が話しかけるところでは思い出したようにその設定を出してきたような印象を受ける。作り手もこの設定がお守りになっていたのではないか。

 

今となっては東出昌大がイケメンシェフを演じている時点で興ざめしてしまうところもあるが、料理ドラマ定番の食事シーンでは品の良さが出ていて良い。

田中から門司(東出昌大)にされる傘の話(誰か一人が傘を盗み、それに気づかず盗まれた人は別の傘を使い、またその傘の持ち主が別の傘を使い・・・ということが続くと、途中で傘を取って行った人は意識的でなくても同罪だという話)は、このドラマ全体を包括しているセクハラ事件、さらには社会全体を包んでいる男尊女卑思想に通ずるテーマとなっている。このテーマの説明は綺麗だった。

 

川奈藍里(高畑充希)の立ち位置が良く、セクハラを「受け流す」ことのできる、男性社会で「うまく」生きている女性を演じ、彼女はその現場を得るために様々なものを受け入れ、捨ててきたと吐露するシーン(教習所を卒業することに例えられる)は忘れがたい。

男性として生きてきた自分が、女性・多様性に寛容であると信じているところを再考させられる。

『「問題」のあるレストラン』の「問題」は単にトラブルを表しているのではなく、これまでマジョリティ側が見て見ぬ振りをしてきたテーマを現前化しただけであることを強く感じる。

 

最終話でのきゃりーぱみゅぱみゅを入れたコップでの演奏(CAPSというらしい)をはじめとする、謎の時間が少なからずあったが、最終的なほっこり感は丁度良いドラマであった。

 

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