ドラマ「それでも、生きてゆく」
「それでも、生きてゆく」第8話以降は各話の感想を書いていなかったが、今日最終話まで見た。
昨日までではなく、明日からを思う、そんな希望のあるドラマだった。
最終話の1つ前である10話までは、文哉を軸にそれを追ったり翻弄される周囲の人、記号的な被害者家族・加害者家族が描かれていたが、最終話はそれとは全く違った空気を感じた。
これまでの関係を懐かしむとともにもう戻らないことを決意するような双葉と洋貴のデート。
その後の彼らの過去の事件に真摯に向き合う姿。
毎朝、朝日が出て1日が始まるという当たり前のことを再認識させてくれる。
このような一つ一つが丁寧なドラマが最後にシークエンスがどうなるかとても気になったが、15年前事件時に洋貴が借りたAVを15年ぶりに返すというところで終わる。
脚本的には綺麗な持っていき方だが、なんとなくそれか〜という感じが否めない。
加害者家族・被害者家族という立場からそれぞれが明日に向かって幸せを追いかける権利、それぞれの向き合う姿勢が痛く描かれたドラマ。本編でも述べられていたように悲しい物語が存在する理由は、その後に悲しい物語が続かないように、ということを強く感じさせる、そんなドラマだった。
それでも、生きてゆく第7話
文哉と言う人物のわからなさが明らかになった回。
そしてまだまだこれからだということが明らかになった。
響子から双葉に言った台詞「幸せになりたいって思ったっていいのよ」「あなた(双葉)だって洋貴だって幸せになれないわけじゃない」。
それは事件を綺麗に忘れることではなく、加害者家族・被害者家族という記号的な意味を超越した意味を感じた。
コンフィデンスマンJP第1話
このタイミングでFODでコンフィデンスマンJP第1話ゴッドファーザー編を見た。
脚本が古沢良太ということもあり期待値も高かったしその通り面白かった。
騙し合いの作品ということのみ知っていたが、お金のためなら何百人のエキストラを雇い、空港、飛行機までチャーターしてしまう。
これを第1話として持ってくると今後の視聴者予想のようなもののハードルが上がるし、作品そのもののフィクション性のようなもののレベルがほぼどこまでもありなのだとわかり、作り手にとって大変だろうなと思う。ただそのくらい自信のある作品が今後続くと思うととても楽しみ。
芝居パート(劇中劇パート)と実際に作戦を立てているパートの構造のようなものの差別化がほぼないため、実際にはもうひと構造、メタ的な視点が入っているのか?考えすぎ?
ラーヤと龍の王国
昨日からディズニープラスで配信が始まった「ラーヤと龍の王国」を見た。
石のかけらを探す旅に5つの国を回る話。
途中まではそれぞれの国で、敵対していた人がどんどん仲間になるという少年漫画的なノリが続く。
主人公ラーヤを過去に裏切ったファング国のナマーリとの対決と和解が感動的。
「信じる」ということがテーマであり、500年前にシスー(龍)を信じて石になった龍の兄弟達の神話を見習い、最後は裏切り者であったナマーリを信じて石のかけらを彼女に渡していく。
今回の敵役はドルーンと呼ばれる怪物?(疫病と言っていたような)である。
時代変遷の表象として注目されるディズニー作品の敵役は安易に人間とできなかったのだと思われる。
敵役がこの怪物だったことにより、敵役の行動原理のようなものがよくわからなかったがそれを疫病と捉えれば腑に落ちる部分もある。
この作品は、水・雨・霧の表現がとても綺麗だった。
一つ一つのしずくが綺麗で、(そういえば主人公は父親から「しずく」と呼ばれていた)本当に細かい仕事だったのだろうと思われる。
龍の神話パートの絵や、各国の違い(季節が違う?)、龍の流れるような描写など鮮やかで明るい表現が見事だった。
ドラマ「それでも、生きてゆく」第6話
第6話では、三崎文哉(風間俊介)と双葉、三崎家(遠山家)と深見家の再開、文哉の看護師であった雪恵の捜索が描かれる。
祖母の老人ホームで再開した文哉と双葉は、久々の再開を喜び、二人で動物園に出掛ける。そこで双葉が就職できなかったことを知ると文哉は「あいつら・・」という言葉をボロっと口にする。また、なぜ深見亜季を殺したのか問われると文哉は「天国に連れて行ったあげただけ」と答える。精神疾患があるのかなかなか理性的な答えを口にしないが、この回から文哉の露出が顕著になり彼の行動原理が垣間見れるようになる。
瀬戸内海の島に行く前に「深見さんに会いに行こう」という双葉と決別してしまう文哉であるが、兄と妹の関係性はこれからも注目される。
兄と妹という関係性でいうと、洋貴と亜季の関係性があるが、当時中学生であった洋貴にとっての妹という存在は年を追うごとに変わって行ったはずである。
逆に、文哉と双葉の関係性は、事件後離れ離れになった時から時間が経過していないような、幼稚じみているというか、大人同士の兄妹の関係には見えない。
深見響子、洋貴の元を、遠山夫婦が訪れ、初めて事件について謝罪する場面では、響子が腕を振り上げ殴ろうとするが、途中でやめる。
洋貴がなぜ殴らなかったのか問うと、昔深見達彦が遠山家の前を通った時に配達の皿が玄関口に重ねられていたこと、その皿に雨が溜まっていたことを思い出したという。「あっちにもいろいろあるのよ」という初めて加害者家族側の視点に立つ響子。
双葉が兄に会っていたことを知った洋貴は、双葉を責め二人の仲違いはさらに深いものになってしまう。カラオケボックスの明るい雰囲気と二人のコントラストが残酷である。洋貴が別れの際に「お疲れ様です」という言葉の残すのは皮肉である。
ドラマ「それでも、生きてゆく」第5話
第5話は洋貴の母親の響子(大竹しのぶ)が、亜季が殺されたことに向き合い、居候先を離れ、洋貴と共に暮らすまでの話。
洋貴が双葉に「大丈夫だと思う」という優しい言葉をかけ、距離が縮まりかけたが、加害者家族についての雑誌の記事を洋貴宅で見つけたことによりまた離れてしまう。
インスタントラーメンを食べならが、洋貴が「大丈夫だと思う」というシーンは重要なシークエンスであった。
少しずつ着実に、被害者家族、加害者家族の距離、事件とそれぞれ当事者の心の距離が狭まってきている。
最後のシーンで、双葉と文哉が再開するところはハラハラする。
TEAM NACS 第17回公演MASTERPIECE〜傑作を君に〜
日本が混沌の急坂を駆け上ろうとしていた昭和27年。
真冬の熱海の温泉宿にも、駆け上りたい男たちがいた。彼らはシナリオライター。
新作映画の脚本執筆のため、泊まり込みで原稿と向き合っている。
男たちは挑む!
まだ見ぬ傑作、【マスターピース】を求め、5人の侍が刀をペンに持ち変えて、未踏の軌跡を描ききる!
ときどき温泉に浸かりながら!
3年ぶりのTEAM NACS本公演。
今回は外部脚本家として喜安浩平、演出はマギーというスタッフが作品を手がけた。
2015年公演「悪童」での古沢良太による素晴らしい脚本により今回の期待値はかなり高かったが、かなり良い作品だったのではないかと思う。
プロジェクションマッピングを使用した演出で、オープニング(タイトル〜クレジット)の流れは「悪童」を踏襲している。
このオープニングから、今回は完全にコメディを見る感覚で良いのだなとわかり、それ以降はなんとなく気持ちに余裕を持って見ることができる。
作中の説明書きが数回投影されるが、サイレント映画の中間字幕のような雰囲気があるなど、たまに映画を思わせる演出が細かくて良い。
映画を思わせる演出としていうと、最後の終わり方が、傘と映画のフィルムが回る様子を重ね合わせ綺麗な締めくくりだった。
作中に脚本家たちが書いていた本に出てくる登場人物(花と虎次郎)が登場して終わるという幕切れは綺麗であり、物語の中で生き続ける人物が描かれる開かれたエンディングは気持ちが良い。
コメディで進めるとはじめから分かってはいたが、黒澤明のくだりは全く回収されることはなく・・(5人の侍のシーンは長すぎた・・面白かったけど)、笑いに走ったところが多すぎるのではないかと思ってしまう。
それぞれ5人が一人二役を演じ分けており、早着替えや声のトーンの変化に注目される。演じ分け自体がコメディ要素になっており、大泉洋演じる灰島と女中(小泉)が会いたいのに必ず会えないというくだりは笑える。
笑いが起きていたが安田が演じていた女中役はかなり上手で、トランスジェンダーを演じていた「問題のあるレストラン」を思い出させる。
コメディシーンといえばまくら投げのシーンでは、アクティングエリアから落ちたまくらを、残りの人が足を押さえながら取りに行っていたところは笑った。
緊急事態宣言中ということもあり、21時までには終演しないといけないという制約のもと、急ぎ気味でカーテンコールの挨拶がされた。
音尾・・・カリー軒に行こうとし、おばちゃんに電話をしたところ、ファンが来ていたようだったのでやめた。
大泉・・・カリー軒に行こうとし、混んでることを知りテイクアウトした。
戸次・・・知り合い(お名前忘れてしまいました)がラーメン屋(お名前忘れてしまいました)を始めたので、よろしく。
安田・・・客席に学生時代の恩師(「あいつ今何している?」に登場)がいることを見つける。
森崎・・・コロナ禍でPCR検査を受けながら公演を続けてきたこと。千秋楽のライブビューイング、WOWOWで始まる新番組の宣伝。
最後の森崎の挨拶は、自分で飛沫防止のため口をガードしながら「ありがとうございました」と叫んでいた。
鑑賞後の気分がとても心地よい作品だった。